丸太小屋に住みたい

 

いつのころからか漠然と,アウトドアライフの暮らしを満喫するため,丸太小屋に住みたいと思うようになっていました。まだログハウスがブームになる前の1970年代です。

 

ピート・シーガーという私の好きなアメリカのフォークシンガーが,ハドソン川のほとりに丸太小屋を自分で建てた[1] というニュースを何かで読んだのがきっかけで,そんなことを考えるようになったのだと思います。

 

そうか,丸太小屋なら自分で建てれるのか,と。シーガーさんの丸太小屋玄関には,「Our house is clean enough to be healthy and dirty enough to be happy」と書いてあるそうです。散らかっている家の言い訳に便利な言葉ですね。

 

倉本聰のドラマ「北の国から」(1981年)で黒板五郎が仲間たちと廃電柱の丸太小屋を建て,同じく倉本ドラマ「ライスカレー」(1986年)ではカナダで修行中の日本人ログビルダーが登場。三浦雄一郎の弟三浦亮三郎が,日本人最初のログビルダーとして著書を出版したのが1985[2]このころから全国的にログハウスブームとなります。バブルをはさんで1990年代中頃がブームの頂点だったと思います。

 

家族で行った「北の国から」の丸太小屋
家族で行った「北の国から」の丸太小屋

 

「夢の丸太小屋に暮らす」という雑誌が山と渓谷社から独立し,丸太小屋の作り方を詳細に解説したセルフビルドのマニュアル本も出版されました[3]。私は40代で体力の限界はまだ知らず,この本を読んで,「これなら俺にもできる!」と思ったものです。

 

しかし当時は勤めと子育てがあるので町を離れるわけにもいかず,松江市内の交通至便でショッピングセンターに近く,子供の通学にも便利な場所にコンクリートプレハブの家を建てた。3人の子育てのための最適解として,その選択肢を選んだわけです。

 

それでも,頭のどこかに丸太小屋の夢は常にありました。一時は松江に近いリゾート地の蒜山に,10坪くらいの小さな丸太小屋別荘を建てようかとも思ったくらいです。

 

残念ながら,住宅ローンを抱えた大学教員の給料では別荘を持つほどのゆとりはないので,丸太小屋は夢として先送りしてきました。

 

やがて子供たちも独立し,それぞれ東京と大阪に就職して,松江に帰ってくることはなくなり,そうなると松江の家にしがみつく必要もなくなります。

 

そこで,定年退職を機に転居することにしました。ありがたいことに退職金が想像していたよりも多かったことも,転居に気持が傾いた理由の一つ。

 

これが終の棲家となるだろうから,住みたいところで理想の家に住もうと考えました。住みたいところは北海道かまたは北アルプスの見える長野県の安曇野,理想の家は,もちろん丸太小屋です。

 

これが実現すれば,人生でやりたいことはすべてやったことになります。もう思い残すことはない。べつにメフィストフェレスと契約したわけじゃないので,すぐに魂を持って行かれることはないだろうけど。

 

北海道プランは,寒がりの女房が断乎反対,ボツにされたが,長野県なら妥協の余地がありそうでした。それに,安曇野なら東京と大阪の中間点なので,孫たちに逢いに行くのにも便利であり,女房を説得する口実にもなります。

 

ただし定年65歳というのは,セルフビルドするには体力・気力に不安があり,しかるべきビルダーを探して建ててもらうことにしました。

 

こうして私の丸太小屋計画はスタートしたわけです。といっても,じつは計画らしい計画などなくて,「石橋を叩けば渡れない」[4]とばかり,ともかく動きだしたにすぎないのですが